総てを癒すもの

第5章 「式典」(6)

作者:ゆんぞ 
更新:2010-10-14

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元々、エリザの大きさは最大でおよそ百五十倍。身長は八十丈(二四〇メートル)ほどとなり、眼前に建物や木などは存在しえない高さだった。
そして目覚めた今、彼女の視界を遮るのは白い雲。

どうやら、意識を失っていたのは一瞬だけのようだ。幸いなことに体勢も崩していない。
(それにしても、大きくなってしまいましたね……)
漏れた溜息に目前の雲がなびく。対比物が無いので正確にはわからないが、文字通り雲を衝いているのだから千丈(三千メートル)かそこらはありそうだ。変な司祭やローンハイムに見せられた悪夢と同じくらいだろうか、幸か不幸か何度も見せられているため驚きは無く、また一通りの対処法も頭に入っている。

まずは自分の動作が突風を起こさないよう、声が人々の耳を壊さないよう風に祈る。そして心の声に耳を傾け、人々の様子を探る。語り掛けや治療はそれからだ。
エリザは手を組んで目を閉じ、風の御霊たちに祈りを捧げ始めた。


ほどなく、彼女の頬を風が優しく撫でる。二つの願いは聞き届けられているようだ。更に眼前の雲を払うよう念じると、彼女を中心として渦状に風が巻き、視界を遮っていた雲が散り始める。

視界が開けると、彼女の目に入ったのは厚い雲が織りなす景色であった。繋がった綿雲による凸凹な平原が広がり、所々に入道雲の山が沸いている。白一色の山野と澄み切った青空は夢で見るより遙かに鮮烈で、彼女が知るどんな景色とも異なっている。

見とれることしばし。足下にあるはずのラファイセットや船団を思い出したエリザは、勿体ないと思いつつも腰の前にある雲を晴らすよう念じる。雲の底は思ったより低く、足首近くまで払ってようやく緑の地面が姿を表す。

地面は一面の緑で、赤茶色の屋根がどこにも見あたらない。つまり街がないことに彼女は気づいた。
これはどういうことなのだろうか。
街が見えないほど大きくなっている……わけでは、なさそうだ。自分より低いとはいえ、山々の稜線は十分に判別できる。
とするとラファイセット以外の場所に移動してしまったのだろうか。だとすればどこに?
除々に顔が熱くなり、喉が渇く。混乱を紛らわすためエリザは天を仰いで目を閉じ、三つ数えてから再び地面に相対する。

地面は相変わらず緑のままだが、よく見ると街道のような灰色の線がある。その線はスカートの中に延び……
慌てて彼女は裾を抑え、少し前屈みになってみる。すると胸元とスカートの遥か下から街や港が現れ、港内には何隻か船も見えた。

エリザの口から思わず安堵の溜息を漏れる。
街には足跡など無く、船も大きく数を減らしている様子はない。最悪の事態を免れた幸運に彼女は短く感謝の言を念ずる。

とはいえ王都は赤い楕円の盆でしかなく、船も大きいものでさえ指先程度にしか見えない。王都が南北十町、東西二十町あったことを考えると、以前見た夢と同じか若干大きい程度だろうか。実際に現実として見せられると、容易には受け入れがたい。

しかし、街の人たちにとっては『受け入れ難い』なんてものでは無いはずだ。文字通り雲を衝く大巨人を前にして、混乱や恐怖に苛まれているかもしれない。
まずは彼等の声を聞こう。彼女は軽く前傾して左手でスカートの前を抑えたまま、右手を胸の前に当てて目を閉じる。僅かな違和感を覚えつつも、まずは街のある辺りに意識を集中させ、住民が発する想いに耳と心を傾ける。


住民の前で繰り広げられる光景と展開は、彼らの理解を大きく超えていた。

落雷を受けたエリザは耐えるように身を固めていたが、何を思ったのか突然きびすを返し、足元の船を跨ぎ越して湾の外に走り去る。そこでも雷の猛攻は止まず、何度も青白い閃光が頭上に煌き雷鳴が響き渡る。エリザは目を硬く閉じ、自身を抱きしめる姿勢で耐えながら街に近付き始める。

なぜ一度離れた街に再び近づくのか。疑問を抱いた住民だったが、落雷を重ねるにつれ稲妻の長さが減っていることに気づく。
「違う。大きくなってる!」
誰かが発した声の方に周囲の全員が振り向く。察した者は街のあちこちに居り、瞬く間にざわめきが街を覆う。

街の不安を余所にエリザは更なる膨張を続け、遂には頭が雲の中に入ってしまう。こうなるともう稲妻は見えず、雲から漏れる微かな光と遠い雷鳴があるのみだ。しかし巨大化は止まる様子を見せず、肩から胸、そして腰と次々に雲の中へ消えていく。

不安を口にしていた住民達も、いつしかこの一方的な展開を前に何も言えなくなっていた。静寂が街に戻りつつある中、空から届く雷鳴もまばらで遠くなる。それを受けてエリザの変化も鈍くなりつつあるが、依然として大きくなっていることに変わりはない。

そうこうしているうちに残された長大なドレススカートも上へ上へとのぼり、彼等のほぼ真上に来たところで雲に飲まれてしまった。地上に残るのは足首の少し上までだが、曲線で構成されたハイヒールと足首は丘のように鎮座し、その上に膨らんだ白柱が雲を貫き聳えている。何とも現実離れしており、夢の中かと思うような光景だ。

いつの間にか雷鳴は無くなり、巨大化も一段落している。そのままの状態がしばらく続いたのち、不意にギリギリという重い音が響き始める。重心を動かしたのだろうか、彼女が何らかの意志で動いているのは確かだ。

次は何だろうか。不安そうに住民達が見る中、今度は空が明るくなり始める。
周囲の分厚かった雲が少しずつ薄れていき、やがてくっきりした青空が現れる。しかし彼等の真上には依然として灰色の雲が残り、しかも不自然に整った楕円形だ。人工的な形を訝る住民をよそに、今度はその雲があり得ない速さで海の方に走る。

そして最終的に、天を覆わんばかりの巨大なエリザの姿が現れた。初め憂いを湛えていた表情は、一瞬の驚きを経てすぐに緩やかな笑みへと転じる。
だがそんなエリザの表情よりも人々の目を引いたのは、彼女の大きさである。天高く聳える姿は側にある家々の屋根よりも高く、顔は真上にまで達している。街のどこからでも見え、空の半分を占めるドレスを前に彼等は呆然と見上げることしかできない。

そんな彼等をよそにエリザは右手を胸に当て、静かに目を閉じた。


しばらく耳と心を澄まして街からの声を聞いていたエリザだったが、足元からの明確な声がなかなか聞こえて来ない。恐怖とか混乱の色が見えると思っていたのだが、これは予想外だ。
焦りも出てきたので、彼女は目を開けて足元を注視してみる。だがラファイセットの街並みは小さすぎて、人々の活動を捉えることができない。湾内の船も然りで、人手で動いているのか単に流されているのか判らない。

次にエリサは、自分の方から語りかけることにした。
(あのぅ。皆さん)
街の人たちを驚かさないよう、遠慮がちに心の声を送る。
(私の声、届いていますか? 聞こえるなら、返事をお願いします)
目を閉じて返事を待つ。


住民の殆どは、いまだに目の前の光景を現実として受け入れられずにいた。彼女の姿は『大きい』ではなく『広い』と表現する方が似合っており、夢か催眠 あるいは騙し絵の類と思うほうがまだ理解しやすいくらいだ。中には彼女の大きさを推し量る者も居るが、比較対象が無いので見当が付かない。

だが、そんな中でも彼女の更なる巨大化について知っている何人かは冷静に大きさを推定していた。
「おそらく三千から四千倍、つまり千五百から二千丈(四千五百~六千メートル)といったところですかのう」
落ち着いた口調でローンハイムが呟くと、周囲の王と護衛の者達が一斉に彼の方を向く。老魔導師は彼等を一瞥し、そして説明を加える。
「足首の上まで雲で隠れておりましたので、雲の高さを三百~四百丈とすれば、その五倍となりましょう。恐らくはそう間違った……」
「そんなことはどうでもいい」
西の王がぴしゃりと遮る。
「一体全体これはどういうことなのだ? まずはそこの説明を要求する」
狼狽しながらも激しく詰問する王を、ローンハイムは軽く手で制する。
「エリザは元々、太陽から火の力を受けて大きくなります。このことは前に御説明致しましたな?」
反応を待つために台詞を区切ると、今度は南の王が割って入る。
「ということは、雷の力で今の大きさになったと?」
「ええ」
ローンハイムは満足そうに頷く。
「そういえば本人も言ってたな。火の力で更に大きくなるとか、夢で訓練しているとか」
王都から迎えに来たエリザと話した内容を、東の王は思い出していた。他人に知られたくなかったのか、大きな体で他言無用の旨を何度も懇願していたのが印象的だった。もっとも今となっては無意味なのだが。
「はい、対処法は十分に心得させております。山火事や噴火なら今以上の大きさもあり得ますゆえ」

王達はその空恐ろしい内容について特に問わず、代わりにエリザの方に向き直る。
「しかし、実際に見ると大きいもんだなあ」
見上げたまま、イーゼムがふと呟く。
「俺等のこと、見えてるんだろうか」
先ほどまで祈るように目を閉じていたエリザは目を開け、やや困惑した様子で町を見ている。ぼんやりした視線は自分の方を向いているようにも、向いていないようにも思える。
「目で見るのは無理じゃろうな。命の灯か心の声を感じ取ろうとしておるはずじゃ」
「なるほど」
彼は頷き、腕を組んで再びエリザを見上げる。腕を振れば気付いて貰えるかもしれないと思っていたが、それは無いようだ。周囲から浮くのが関の山だろう。

(あのぅ。皆さん)
今度は不意にエリザの声が全市民の心に響く。遠慮がちな声色だが、初めて発した声に皆の注目が集まる。
(私の声、届いていますか? 聞こえるなら、返事をお願いします)
その声を聞き、町は徐々にざわつき始めた。
「返事って……」
「どうやって?」
「届くのか?」
「いやぁ」
そんな声が上がり始める。

確かに その疑問はもっともだ。折角なので、イーゼムは傍らのローンハイムに尋ねてみた。
「返事って、俺等が言って聞こえるんもんですか?」
「ははは、それは流石に無理じゃ」
顎をさすりながら一笑に伏す。
「エリザの耳までは隣町以上の距離があるのじゃぞ。心話で反応せよと言いたいのじゃろう」
そう答えてローンハイムは空に向き直り、エリザの方を凝視する。イーゼムも彼を真似てみることにした。
(おーい、聞こえるかー?)
しかし実感というか距離感が沸かないため、どうにも気が入らない。
(うーん、本当に届くのかなあ……)


今度は心の声が微かに聞こえるものの、まだ言葉として捕らえるには不明瞭なものばかりだ。
(うーん、ごめんなさい)
エリザは軽く頭を下げ、説明を加える。
(まだ少し、皆さんの声が聞き取りづらいようなんです)
夢で見たほど上手くは行かないが、糸口は掴めてきた。心を落ち着かせるか、相手に近づくことができれば何とかなりそうだ。手っ取り早いのは後者だろう。
(ですので、今から皆さんに近づくために、しゃがみますね)
一語一句含めるように伝え、エリザは両手でスカートの前後を抑えながら慎重に腰を下ろしていく。

その途中でスカートの裾が地面を擦りそうになっていることに気付き、抑えていた生地を慌てて引き上げる。

中腰で止まったまま、エリザは地上の状況を確認する。人心に多少の恐怖が見えるものの、怪我による苦痛の声はない。また建物も彼女から見える範囲では無傷のようで、裾が街を蹂躙する事態は回避できたようだ。
(大丈夫、みたいですね)
思わず安堵の息が漏れる。
(ごめんなさい。これから気をつけます)
声を掛けて、エリザは再び腰を沈めていく。膨らませた分だけスカートの丈が長いようなので気をつけなければ。


どうやら、心の声は届かなかったようだ。
(ですので、今から近づくために、しゃがみますね)
エリザは普通なら何でもないことを大げさに伝えると、山をも越える巨躯を動かす。それは台詞の強調に劣らぬ大移動だった。

まず膝が前にせり出し、山裾のように拡がっていたスカートが垂直に起き上がる。聳え立つ巨大な布壁は滝を縦横に何十も繋げた規模があり、さながら世界の果てを示す大氷壁だ。
その巨大な布壁が、今度は揺れながら埠頭めがけて降下し始めた。
「えっ!」
「落ちる?」
「まさか!」
信じられない光景を前に港湾の市民達は凍り付く。声を上げられる者さえ少数で、逃げるところまで思いつく者は誰もいない。

呆然と見上げる中、白い裾は地表になだれ込もうとするが、幸いにして地上に届く前に落下は収まった。うねったフリルの一つ一つだけで一区画より大きそうな裾は、家々の上を舐めるようにして前後に揺れている。
その裾はすぐに引き上げられ、その上方ではエリザがあちこちに視線を配っている。

一通り見て判断が付いたのか、彼女は安堵の表情で雲を吐く。
(大丈夫、みたいですね。ごめんなさい。これから気をつけます)
そう言って、彼女は更に腰を下ろす。

動きに伴って今度はごぎごぎ、ぎりぎりという不気味な音が街中に響きわたる。
「なんだこれは?」
「関節の音じゃよ。あとは靴の皮が軋む音じゃな」
誰ともなく問う声に、ローンハイムは平然と答える。
(よもやここまでとはのう。素晴らしい)
これだけの不可思議な体験は、冥土の土産として申し分ない。彼は二度三度、満足そうに頷いた。


高度の低下によって見える単位は徐々に細かくなる。街全体から広場と大通り、区画、個々の建物、そして腰を下ろしきったところで建物の凹凸まで見えるようになった。更にエリザは足の甲に手を置き、背を屈めて目を凝らす。そこまでやってようやく、一人一人の姿を捕らえることが出来た。

それにしても小さい。街の建物や広場、通りが刺繍のように配され、その中にいる群衆は まぶした砂粒程度の大きさだ。当然ながら彼等の表情は伺えず、心の声を聞いても依然として帰ってくるのは多少の恐怖や言葉にならないものばかり。ただ彼等が殆ど動かず、またその色から多くが自分を見上げていることは判る。

もしかして彼等は、ただ呆然と見上げているのではないか。そう考えたエリザが改めて聞き直すと、確かに断片的ながら『一体何が?』『本当か?』『嘘だろ?』『夢じゃないか?』『わからない』といった類の声が聞こえる。おそらくほとんどの住民は驚嘆や恐怖より前に、彼女の現実離れした大きさを前に実感が沸かないのだろう。言葉にならない声ばかりだったのも、これなら納得できる。

何にせよ彼等が心身ともに無事と判り、エリザは天を仰いで溜息をつく。眼下の街は相変わらず小さく 人々も黒い点のままだが、彼らの心の内が判った今は その砂粒たちが何とも愛おしい。いつしかエリザの表情も普段の穏やかな微笑に戻っていた。
(改めまして、こんにちは。みなさん)
挨拶をすると、そこそこはっきりした返事がかえって来る。我を忘れているわけではなさそうだ。
(私のことを夢か幻だと思っていますね? 思ったことを正直に念じて下さい)
尋ねてみると まず慌てたような声が、続いてそれを弁解するざわざわとした声が心に届く。何ともわりやすい反応に、エリザは沸き上がる悪戯心を抑えきれなくなっていた。
(幻なんかではありませんよ。これから、証拠をお見せしますね)
彼女は楽しそうに微笑みながら、右手の人差し指を立てて小さく振る。その人差し指を中央広場の上、五寸ばかりの高さにかざす。
(私の指、本当はとっても大きいんですよ)
そう言って、エリザは指をゆっくりと降ろし始めた。


完全にしゃがみきったエリザは足の甲に手を置き、更に上半身を屈める。それによって彼女の顔が徐々に大きく写り、街の多くがその影になる。
薄暗い街から見上げるエリザの顔は、その圧倒的な大きさに加えて やや緊張した面持ちと真摯な眼差しが神性に近いものを醸している。どうしても目が合ってしまい、一度合うと離せない。
「大っきいなぁ……」
絞り出すような声を出したイーゼムは ようやく自分の目が乾いていることに気づき、目を閉じて目頭を押さえる。

再び上を見ると、エリザは軽く頷きながら微笑んでいた。暖かく、見ている者の緊張を解きほぐすような表情にあちらこちらから溜息が漏れる。
(改めまして、こんにちは。みなさん)
彼女の声からは緊張が消え、心に染み入るような調子になっていた。
(私のことを夢か幻だと思っていませんか? 思ったことを正直に念じて下さい)
図星だ。
正確には頭で分かっていても、裾になぎ倒されそうになっても、心の奥底ではどこか信じきれないところがある。

そんな心境をイーゼムが隣の老魔術師に吐露すると、彼は楽しそうな、だが少し曖昧な笑みを浮かべて頷く。
(幻なんかではありませんよ。これから、証拠をお見せしますね)
エリザは右手の人差し指を振りながら満面の笑みを湛えている。子供を相手にするときの、少しだけ悪戯っぽい笑みと仕草だ。ついで彼女はその人差し指を街の上に翳す。
(私の指、本当はとっても大きいんですよ)
そんな台詞の後に、エリザの指先だけが大きくなり始める。広場にいる者達は特に、指を降ろしていると気付くまで少し時間を要した。


最初は街から来るざわめきも好奇心に満ちていた。
(どのくらいだろう?)
(でも指だよな?)
といった感じの声を おぼろげながら聞き取ることが出来た。

しかし地上まで二~三寸あたりから、どこまでも大きくなる彼女の指に対する不安が声に混ざり始める。
(まだなのか?)
(どこまで……)
翳した指はどこまでも大きくなり、限度が見えない。広場に落とす影も濃くなり、先の見えない恐怖と圧迫感が徐々に彼らの心を侵し始める。
(安心してください。絶対に、潰したりなんかしませんから)
一方のエリザは優しい微笑を浮かべたまま、中央広場に向けてゆっくり指を下ろしていく。

指の腹と中央広場がほぼ同じ大きさであることが解って貰えれば、そこで中止するつもりだった。しかし彼女にとっての誤算は、彼らの恐怖が徐々に増していくと思い込んでいた点にある。
(うわぁぁぁぁ!)
いきなり誰かが叫び声を上げたかと思うと、広場の黒い点たちが動き始める。

突然の変化にエリザは目を見開く。広場から外への流れは周囲で見ていた人々にぶつかり、あちこちから悲鳴と怒号が上がる。
(ちょ、ちょっと待ってください)
遠慮がちに声を掛けるが、反応する者はいない。混乱は止まらず、人々の激しい動きは外へ外へと波及しつつある。

このままでは街全体が混乱してしまう。激しい押し合いで圧死者が出る可能性もあるため、早く手を打たなければならない。エリザは素早く意を決し、緊張した面持ちで街に向き直る。
「止まって下さい」
エリザは短く声を発する。凡そ四千倍の体躯から出された肉声は街の隅々まで響き渡り、人々の流れを凍らせる。

おずおずと見上げる人々の目には、緊張した面持ちの巨大な治癒術師が映る。広場の周囲にいた者はみな 彼女の広く投げかける目線が自分に向けられていると錯覚し、目を離すことが出来ない。
「これから、皆さんを治療します」
エリザは静かに宣言する。口の動きから二呼吸ほど遅れて届く声は雷鳴のように轟きながらも優しく、群衆の心を落ち着かせる。
(倒れている人が居ましたら、周りの人が起こしてあげてください。いいですね?)
心の声で付け加えると、エリザは右手を胸に当てて感覚を研ぎ澄ませる。

今までになく明瞭に伝わってくるのは、やはり痛みや苦しみの声。それも、痛む部分を具体的に訴える声だった。出来ることなら 違う内容をはっきりした声として聞きたかったが、そんなことを考えている場合ではない。エリザは彼らの声を受け止め、目を閉じて彼らのために祈る。

夢の中で何度も治療していることもあり、エリザに躊躇は無い。一方の群衆にしても山のような巨躯が静謐に祈る姿は幻想的で、なんとなく口をはさみづらい雰囲気だ。静かな時間のなか、エリザに伝わる感情も驚きに変わり、いくらかの喜びと感謝を経て穏やかに薄れていく。

思ったより変化が早いので、エリザは逆に不安を抱いた。目を開けて広場の周りを見るかぎりは平穏な雰囲気のようだが、それだけでは安心できない。
(えーと。皆さん、大丈夫ですか?)
端々に忙しく目を配りながら、エリザは問いかける。
(もし怪我などありましたら、遠慮無く声を上げてください。どんな小さな怪我や痛みでも構いません)
切実な訴えに対して得られる反応は苦笑のようなものばかりだ。苦しみとか痛みといった類の声は全く聞こえない。
(あの、本当に大丈夫なんですね?)
念を押すと、今度は笑い声が返ってくる。
(おかげさまで元気ですよ)
(持病の腰痛まで治ったわ)
(心配しすぎだよ、ねーちゃん)
(まったく、おまえらしいや)
内容どころか一字一句まではっきり聞こえ、エリザははっと息を飲む。
(き、聞こえました!)
驚きに満ちた表情は、すぐに満面の笑みに転じる。
(皆さんの声が、聞こえました。全部。良かったあ……)
あふれ出る思いをそのまま言葉に出しながら、エリザは崩れるように長い息を漏らす。

しかし その暖かい吐息が街の端まで届く前に、エリザは表情を引き締めて頭を下げる。
(ごめんなさい。皆さんを怖がらせるばかりか、怪我までさせてしまって)
街から反応する声は『気にするな』とか『いいんだよそんなの』といった内容だ。
(ありがとうございます)
エリザは沈んだ表情のまま軽く笑み、視線を落として訥々と語り始める。
(私はちゃんとここにいて、幻じゃないということを感じて欲しかったんです。
皆さんに幻だと思われたら、私は独りになってしまいますから……)
そこまで言ってエリザは顔を上げ、いつもの優しい微笑を街に投げかける。
(でも今は、皆さんの声が聞こえますから、大丈夫です。
本当に、自分でも驚くぐらい大きくなってしまいましたが、よろしくお願いしますね)

軽く会釈すると、街のあちこちからぱらぱらと拍手が沸く。それは人づてに広まり、ほどなく街全体が拍手に包まれた。
エリザは目を丸くし、軽く口まで開けてその様子を見ていた。自分にとって彼等は点にしか見えず、彼等にとって自分は街を丸ごと踏みつぶせる山だ。しかし、それでも心はしっかりと通じ、彼等は自分を受け入れてくれている。何ともいえない様々な感情が一気に沸きだし、エリザは思わず口に手を当てる。
(ありがとうございます)
想いを込めた言葉と共に、エリザは再び頭を下げた。


落ち着いたところでエリザは先ほど王達を降ろした埠頭に目を転じる。まず目に付いたのは銀色の点の集まりで、これは護衛の騎士達だろう。とすれば、その中にいる点が王達となるのだろうか。
(あのう)
声を掛け、彼等が自分に向き直るだけの間を置いて言葉を継ぐ。
(申し訳ありません、予想外の展開になってしまいました)
(う、うむ)
返事に多少の狼狽はあるようだが、反応が分かるなら大丈夫だろう。
(次は如何致しましょう?)

問いかけたものの返事がなく、もう一度声を掛けようかと思ったところで別の声が返ってくる。
(いま協議中だ。少し待ってくれないか)
それは彼女の良く知っている声だった。
(あら、イーゼム? そこに居たんですね)
半刻前に聞いた響きだが、今はなぜか懐かしい。
(ははは、ちゃんと居るさ。死んだとでも思ったのかい?)
(あ。いえ、そういうわけでは……)
(儂もおるぞぉ!)
答えを遮るように、呼んでもいない好々爺の声が飛ぶ。
(貴方の心配もしていません。残念でした)
エリザは笑いながら言い放つ。この二人は何があっても無事だろう。

まだ協議しているらしいので、エリザはふと湧いた疑問をぶつけてみた。
(ところで、貴方達から見て どうですか? 今の私の大きさは)
(どうって、まあ……うん、大きいのは確かだよな。本当に)
答えにくそうなのは、うまい言い回しが見つからないのだろうか。夢の中でもそんな具合だった。
(やっぱり、表現しづらい大きさなんでしょうか?)
ちょっと突っ込んでみると、イーゼムはたどたどしく説明を始める。曰く、街のどこからでも見える存在感はもう圧倒的だ。しかし距離があるため本当の大きさは分かりにくく、まるで騙し絵のようだ。指を降ろしたことでやっと少し実感出来たという感じらしい。

ローンハイムも同じような感じらしい。圧倒的なのは言うまでもないし、見た限り数千倍と見積もってもいる。しかしそれがどの程度大きいのかは まだ完全には理解できず、説明も出来ないのだという。
(折角の素晴らしい大きさじゃのに、これでは冥土の土産にもならんわ。
どうせじゃから、此処に指か何か降ろしてくれぬかのう)
(無茶言わないで下さい)
口惜しそうな師匠を、エリザは半ば呆れながら宥める。


協議の結果は単純だった。式典そのものは落雷の前に終わっているし、新しい大きさのエリザに対する式典も必要なら日を改めるのが妥当だ。よって、王達が城に戻った後は彼女自身で判断して進めて欲しいとのことだ。
(ああ、はい。そうですね)
一応そう返すものの、いきなり進行を任せると言われても困る。さりとて、彼らの説明に筋が通っているので反論もできない。

王達が城に戻るまでの間、エリザは今の大きさで街の住民に何をしてあげられるかを考えていた。今のところ関係は良好であり、反応を聞くこともできる。過剰な心配も不要だから、考えも自然と前向きになる。いろいろ出来そうだが、まずは夢の中で試したことからやってみよう。

城に戻った王達から、以降の進行はエリザに任せる旨が宣言されると、人々の視線は再び彼女に戻る。
(ええと。私からちょっと、提案があります)
人差し指を立てて、少しだけ遠慮がちにエリザは持ちかけてみる。


彼女の提案は、いつも子供たちにねだられる『高い高い』だ。しかも今回は街を丸ごと、雲の上まで持ち上げる大きなものである。住民の方も彼女の大きさに慣れてきたのか、聞こえる意見はほぼ賛同の声で、特に子供達は明後日の約束が今日になったと喜んでいる。それと同時に、高所恐怖症と思しき何人かの不安や反対もはっきりと聞こえてくる。
(うーん、そうですね。高い所が苦手な方も、いらっしゃいますよね)
エリザはちょっと首を傾げ、しばし思案する。意見が拾いやすいと余裕を持って対応出来るから有り難い。
(では、苦手な方は、街の真ん中まで移動をお願いします。そこなら、下さえ見えなければ何も変わりませんよ)
そう諭すと、彼らの不安も薄れてゆく。これなら大丈夫だろう。

街を持ち上げるといっても、夢でやったように直接手で持ち上げるわけではない。そんなことをすればさっきの二の舞になるし、街が崩れる可能性もある。その代わりにエリザは街を包むように両掌をかざし、目を閉じる。

街の半分以上を覆えそうな両掌にざわめきが挙がるものの、そこに恐怖はない。薄暗くなった街の住民は空を分断する指を好奇のと期待の目で見ているようだ。
(えっと、そうですね。これから街に魔法を掛けます)
自分の行動を伝えていなかったことに気付き、エリザは目を開けて慌てて補足する。
(まず、建物が壊れないようにします。それから、地面を少しだけ持ち上げます。いいですね?)
途方もない規模の魔術だが、説明するエリザの口調は軽やかだ。
(はーい!)
子供たちの返事も陽気なものだ。その愛おしさにエリザは微笑み、再び目を閉じて大地の御霊たちに念じる。

御霊たちの加護はすぐに街の全域まで行き渡り、街中の建物と支える大地が魔力を帯び始める。これで少々の無茶をしても建物が潰れることはないだろう。百五十倍で練り歩いたときより安全というのも皮肉だが、被害が出ないに越したことはない。

一方の住民たちも、石壁のたてる微かな音で変化を察したようだ。
(これで強くなったの?)
(じゃあ、叩いても壊れないんだ)
(ははは、元々おまえじゃ無理だろう)
そんな微笑ましいやり取りまで聞こえる。

声が落ち着くのを待って、エリザは次の術を宣告する。
(では、次に魔術で地面を起こします。少し揺れると思いますので、不都合がありましたらお伝え下さい)
(おっけー!)
(お願いします)
(はやくやってくれー)
我先にと届く怒濤のような返事に、エリザは困ったような笑みを浮かべ眉間に皺を寄せる。
(えーと。言って頂くのは嬉しいのですが……これでは、不都合がある人の声が聞こえません)

結局、階段を上り下りしている人や鍋に火を掛けている家が少しあったようだ。彼らの対応を待ってエリザは街の地下に魔力を送る。
するとほどなく微かな地鳴りが響き、街全体が小刻みに揺れ始める。棚のものが動く程度の弱い揺れが長時間続き、同時に何か持ち上げられるような感覚がある。
(いま持ち上げています。大丈夫ですか?)
術に集中しているせいか、エリザの問う声にも余裕がない。
(ああ、大丈夫だよ)
(思ったより揺れなくて安心しました)
(すごいや、本当に持ち上がってる!)
街の連中は気楽なものだ。一々怖がるよりはよほどましだが、市壁の回廊から見ているのは流石に気を抜きすぎではなかろうか。
(もう、しっかり捕まっていて下さいよ。落ちても知りませんから)
エリザは僅かに拗ねた口調で注意を促す。しかしその返事は思ってもない場所から来る。
(う、うむ。そうじゃな)
遠慮がちに応えた声は、テラスに出ていたラファイセット王のものだった。


街全体が指二本分ほど隆起したところでエリザは術を止める。
(では、これから街を持ち上げます。掌が下りますのでご用心下さいね)
そう言って両の掌を向かい合わせたまま下ろし、小指と掌側で街を包み込もうとする。

市壁の高さは、指幅の三分の一といったところか。逆に考えれば街壁の何十倍もの白壁が両側から迫っているわけで、市壁に居る者はもちろん、街の中にいる者にとっても相当な脅威になりそうだ。
(大丈夫ですか? 怖くはありませんか?)
一寸ほど余らせて手を止め、エリザは尋ねる。
(ええ、大丈夫ですよ。今のところは)
(これ手なんだよね、大きいなあ)
(まるで雲みたい)
返る声の大半は朗らかなものだが、不安の声もある。曰く、先ほど指を近づけたときは際限なく大きくなるのが怖かったそうだ。
(そうですね)
手をいったん引き、少し考えてからエリザは案を示してみる。
(じゃあ、ゆっくり近づけてみましょう)
そう言って、しかしエリザは首を傾げる。
(えーと。もしかして、一気に近づけた方が良いのでしょうか?)
(いや、多分速さの問題じゃないと思うぞ)
割って入ったのはイーゼムの声だ。
(問題はどのくらい大きくなるか解らないことだから、お前の大きさが解れば良いんだ)
(あ、はい。そうですね)
エリザは応え、掌の幅を示しながら自分から見た町の感覚を伝える。
(私の掌は、おそらく……そうですね、高さは壁の二十倍近いと思います)
彼女の見積もりを聞いて、街から一斉に驚嘆の声が挙がった。
(そんなになるのか)
(すごい)
(やっぱり大きいんだな)
(おいおい、本当なのか?)
不思議なほど怖がる声は挙がらないものの、疑問を挟む声がわずかに混じって聞こえる。
(え、ええ。見たところ、壁の高さは指の三分の一くらいですので、掌はその位になると思います)
説明しながら自分の大きさを想像してしまい、エリザの顔ががつい赤くなってしまう。
(いまさら恥ずかしがるなよ。可愛い奴だな)
茶々を入れながら、イーゼムはエリザの大きさを計算していた。指幅の三分の一を一分(三ミリメートル)、市壁の高さを四~五丈(十二~十五メートル)とすると、エリザの尺度が計算できる。
(四~五千倍ってとこか。大きい大きいとは思っていたが、本当に凄いな)
イーゼムの感嘆の声を受け、エリザは照れ笑いを浮かべる。
(あまり大きい大きいって言わないでください。気にしているんですよ)
彼女は止めてくださいと言わんばかりに手を振る。少し間をおいて、香を含んだ涼風が街を駆け抜けた。


掌から市壁までの距離を逐次報告しながら、エリザはゆっくりと掌を近づけていく。
(あと二分くらいです……一分……)
最後をことさらゆっくりと近づけ、どうにか街の土台と壁に接することができた。包み込むように触れた石壁はやはり小さく、中や上にいた連中は避難しているようだ。
(大丈夫ですか? 怪我されている方や、恐怖を感じている方はいらっしゃいませんか?)
念のため尋ねて答えを待つ。

問題がないことを確認して、作業を次に進める。
(それでは、街を地面から切り離します)
そう伝えて大地に念を送ると、ぴきぴきという甲高い音が出る。それを聞いた住民から不安の声が挙がったので、彼女は微笑んで説明を加える。
(これは石が割れる音です。安心してください)
切り離しが終わったことを確認するため、エリザは少しだけ街を回す。今度は石同士の擦れる音が地響きとなって轟き、驚きの声が一気に届く。
(ご、ごめんなさい)
なかば反射的にエリザは頭を下げ、確認のため動かしたことを説明する。

彼女の反応と説明で町の人も落ち着きを取り戻したので、いよいよ街を持ち上げにかかる。
(それでは、空の世界にご招待いたします)
そう言って、エリザは慎重にラファイセットの街を持ち上げ始める。

上昇の速さによっては、重さを感じたり揺れに酔ったりするらしい。エリザは人々の様子を慎重に伺いながら、大きめの盆くらいある街を恭しく持ち上げていく。

二寸ほど持ち上げたところで手首を上方向に捻り、指四本を町の下に滑り込ませる。そして膝の高さまで来たところで掌全体を街の下に滑り込ませる。
そうすることでやっと支えが安定したので、膝の上に掌ごと街を置いてひと休みだ。改めて街の様子をつぶさに見渡し、何度目になるかわからない質問を投げかける。
(やっと膝の高さまで来ました。皆さんは大丈夫ですか?)
(もちろん!)
(おかげさまで、全然揺れてないよ)
(そんなに一々確認しなくても大丈夫ですよ)
(ねーちゃんも必死だなあ。心配し過ぎはよくないぞ)
逆にこっちを心配する反応の数々に、エリザはつい吹き出してしまった。
(ちょっと待ってください。そんなに私のことが心配ですか?)
(だって、なあ)
(全然揺れてないのに、すっごい緊張してたんだもん)
(緊張しすぎて落っことすんじゃないかって、それが心配だったよ)
緊張していたのは確かだが、かなりの言われようだ。そもそも四万とも五万ともいわれる数の命を掌に乗せて、それで緊張しないほうがおかしい。
(もう。そんなこと言う人は)
エリザは掌をずらして親指を街の外に出す。そして塔の何倍も太く高い親指を街の両脇に出現させ、首をもたげるように曲げて左右に振る。
(ひとの心配なんて出来ないようにしてしまいますよ)
(ひゃあ、こわいこわい)
(たいへんだー)
怖がっている気配など皆無だ。爪に城が乗るくらい大きな指にも慣れてきたのは、果たして良いことなのかどうか。エリザは苦笑するしか無かった。


今の時点で街の高さは灰色の雲と同じくらいまで来ているが、エリザにとってそれはまだ膝の上に過ぎない。
(では、そろそろ立ち上がります。本番はこれからですよ)
(あ。そうだったんだ)
(おう、行ってくれ!)
(あっ! 少し待ってください!)
意外な反応に、エリザは目を開いて声が出た辺りを凝視する。
(どうなさいました?)
尋ねてみると、先ほどの声の主が応える。
(ありがとうございます。今この光景を描き留めたいんです)
どうやら、広場で自分を描こうとした画家の一人が待ったを掛けているようだ。
(あ、はい)
素直に応じるものの、どうにも彼の真意が見えない。差し出がましいと思いつつも、エリザは疑問をぶつけてみた。
(ですがその、立ち上がった後のほうがずっと遠くまで見えますし、綺麗だと思いますよ)
(いえ、この景色が良いんです。天地がいま、丸ごとあなたの体に置きかわっていますから)
横槍に怒ることもなく、画家は熱を帯びた口調で断言する。
(そうなんですか)
力ない返事をして、エリザは街が置かれている状況を考えてみた。確かに街の下にはスカートの生地が広がり、引き寄せたことで上半身が覆い被さっている。
(この世で最も美しい被写体は、大自然の光景と女性の体だと思っています。
その両方が一緒だなんて、本当に素晴らしい。奇跡だ!)
(はぁ・・・)
褒められているのか、単に欲情しているのか解らない内容だが、熱の入った口調に押されて無下に断れない。結局エリザはデッサンが終わるまでしばらく姿勢を保たなければならなかった。


やっと画家のデッサンから開放されたので、エリザは一言断ってからゆっくりと立ち上がる。
ずっと同じ姿勢を保っていたので、筋肉が伸びる感覚に思わず声を漏らしそうになり、慌てて彼女は奥歯を噛む。

彼女が立ち上がるに従い、街はどんどん高度を増していく。殆どの住民には重力と雲の流れる方向から認識できるのみだが、一部の者は壁や櫓に登って風景の変化を直接楽しんでいるようだ。
(壁の上で立つのは危険ですから、身を低くして下さいね)
(はーい!)
注意を促すと元気の良い声が返り、壁の上に居る点が少し長くなる。
(うん、素直でよろしい)
子供相手の口調がつい出てしまい、慌ててエリザは台詞を継ぎ足す。
(あ、安全のため、御協力をお願いしますね)

完全に立ち上がったところでエリザは街を左手に移し、ゆっくりと息を吐き出して雲を作る。その雲を右手で均しつつ、念を送って支える力を与える。最後に街を雲の上に乗せてゆっくりと左手を離すと、街はわずかに沈みつつも空中に留まった。
(はい、これで安定しました)
安堵の笑みを街に向け、エリザは宣言する。
(もう動いても大丈夫ですので……って、あの……)
説明は途中で終わってしまった。言ってるそばから、街の黒い点たちが一斉に街の縁に向けて動き始めたからだ。
(見せて見せて)
(いや、俺が先だ)
その動きだけでも明らかだが、声を聞くと彼らの先を争う様がよりはっきりと伝わってくる。これにはエリザも苦笑するしかない。
(ゆっくり、落ち着いて移動して下さい)
溜息混じりに注意を促すが、返事はまばらだ。人の流れにも変化はない。
(もう)
エリザはその反応に呆れる反面、内心では彼らが楽しんでいることを喜んでもいた。何か思いついたのか、彼女の表情はすぐに悪戯っぽい笑みへと変わる。
(怪我なんてしたら許しませんよ。もし何かあったら)
そんな声と共に、走る群衆の周囲が暗くなる。変化を察して見上げると、彼らのすぐ上には広場よりなお大きな人差し指が翳されている。
(みんなまとめて治療します。一人だって逃しませんからね)
脅迫にしては妙に楽しそうな声が、彼らの心に届いた。


エリザが翳した指によって、群衆の動きは目に見えて鈍くなった。かといって怒号が上がるわけでもないので、衝突や事故は無いと判断していいだろう。冗談混じりの脅しは思った以上に効果があるようだ。
(ふふ、解って頂けましたか?)
指を引っ込め、身を屈めて尋ねる。
(ああ……)
(うん)
(そう、だな)
返ってくる声はくっきりと聞こえるのだが、なぜか生返事ばかり。
(ん? どうされました?)
気になったエリザは更に問うが、やはり釈然としない返事ばかり。怖がっているようでもないし、いまさら彼女の大きさに驚いているとも考えにくい。

数千倍も差があると、こういうときに相手の様子が判らないから厄介だ。伝わる声からして深刻な状況ではなさそうだが、やはり不安と好奇心は拭えない。
エリザはもう少しだけ身を屈めてみる。
(うわ)
(おお)
(すごい)
聞こえるのは短い感嘆の声ばかり。ただ、近づいたことによって人の手足が何となく識別できるようになった気がする。もう少し近づければ、何か見えるかもしれない。エリザはさらに身を屈め……

そのとき、彼女の胸が何かに触れた。


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